のんびり気まぐれ猫ブログ

教養を身につけたい、そんな年頃。

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眠れない夜を抱いて

布団に入って寝つこうとしたのですが、色々想像してしまったら、涙が止まらなくなりました。ことの発端は私で、相手には言葉を尽くしてみたものの、伝わるニュアンスが違うかもしれないし、それで相手を追い込むことになってしまったらどうしよう、って。もしそうなったら、本人だけじゃなくて、その家族も友人もきっと悲しむことになるんだろうし、そうしたら、もう取り返しのつかないことだなぁ、って。変なことを想像するなって言われるかもしれないですが、何故だか止まらなくなったのです。

ネガティブな想像が止まらなくなったら、ふと「ネガティブなこと言わなーい」って言葉を思い出しました。そのときは何気ない会話の中でそんな言葉が出てきたのですが、そう明るく言っていたその人も、いっぱい悩んで苦しんでいたのに、私はそのことをちっとも理解できずに、折角誘ってくれたのを断ったこともあったなぁ、なんて思い出して、また涙。

いつも失ってから気づくのは、学習能力の欠如のせいですかね…
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つまらないものですが…

この頃、日記を書こうとするエネルギーが、負であるような気がします。そんなに毎日毎日文章化できるほど楽しい出来事ばかりでないのはわかっていますが、それでも言わずにはいられないような。捌け口が他にないなんて、寂しい人みたい。

文章にしてしまった時点で、きっと取るに足らない事象なんだと思います。人が見れば、それは思い過ごしと判断されるかもしれないし、そんなことでうじうじ考え込むぐらいなら、止めてしまえばいいって言われるかもしれません。それともそういう事態を想像するのは、普段私がいかに思いやりを持っていないかということの証左なのかもしれない。

優しくありたいと思うのは、優しくないからなのでしょうか。どういう行動をすれば、人が喜ぶかということに思い至ることはできても、それが自分にとって自然な行為とは言い切れないとき、特にそれが身近な人の場合はどういう風に自分を捉えればいいのでしょう。

ぷつんと糸が切れてしまって、「私はこんなにやっているのに」と思ってしまったら、それは取り返しのつかない過ちのような気がします。相手が求めていなかったことまでやっているとすれば、そういう気持ちは自分の傲慢さでしかないように思います。かと言って、自分の意のままに何もしなければ、そういう自分の人間性を疑いかねません。どちらにしても、非は自分になってしまいます。

「それはないんじゃないの??」って人にも対立意見を述べられるような、自分なりの基準が明確になっていないせいでしょうか。物事は正しいか間違っているかでしかない、というわけはないように、自分の基準も客観的に正しいか間違っているかということでは、分けられない。けれど、私は分けようとして挫折して、そのこと自体に自分の誤りを感じているのかもしれません。

物事は疑い出したらきりがないことの実例を示してみました。
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四苦八苦

土曜日の勉強会のレポートを提出するとか何とかで、やらなきゃな~と思いつつ、youtubeで漫才見ていました。去年のM-1のネタとか。部屋で1人でケラケラ笑っていました。

先日はお酒の席で、言った張本人に悪意はなかったのかもしれないけれど、その場において私の胸にはグサッと刺さるような言葉を耳にしました。きっと私が自分の価値観を確立していて、自分に自信があれば聞き流せたことなのでしょう。

あとで思い返して、それは相手の劣等感の表れであったり、自分のひねくれた受け止め方であったり…どういうことにしても、深刻に捉えて辛い思いをするのも癪だったので、悩むのを止めることにしました。相手の年齢や経験に引きずられて、自分の物の見方や価値観まで否定しがちなのは、私のよくない癖だと思うのですが。

自立志向のようでいて、不安で怯えやすい生き物です。

色んな人を見ていて、どうして自分で選択肢を減らしてしまうのか、どうして自分の存在価値を目に見えるものに求めてしまうのか、どうして自分の自己評価を他人からの評価にすり替えて自らを追い詰めてしまうのか…そんなことを考えて、私自身も消耗しそうになります。

でも、まあ明日から当分はそんなことを考える暇もないので、休みが終わるのは悲しいですが、ある意味では楽だとも言えます。

人の日記を見ていると、1つの記事にいくつもコメントがついていて、羨ましいなー、と思います。ところが、私はまたコメントのしにくい記事を書いてしまいました。本来、人に見せることのない日記の性質としては問題ありませんが、だったらWebで公開することないのかなとも思います。今更ですが。

何を期待して私はこの日記を書いているんでしょう。
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大みそか―振り返り―

ついに。今年も最後の日になってしまいました。まったく部屋が片付きません。いえ、何でもかんでも捨ててしまえば楽になります。でも、やっぱり捨てられないものもあります。

大学入学後に購入した物理学とか生命科学資料集なんてものは、捨ててしまいたい気持ちでいっぱいです。あっても見ないし。でも、高いお金を出して買ったものなので、そこまでする潔さはありません。古本屋に売れればいいかもしれませんが、本の中に汚い字で書き込んだりしたので、タダ同然で売ることになるでしょう。

実生活の上で特に必要でないものでも、捨てるとなると躊躇われます。過去を引きずるのはよくないけれど、過去と決別してしまうのもどうなのか。そんなわけで、私は就職活動関係のものはほとんど捨てました…って論理的におかしいですね。

それにしても、自己分析シートやら適職診断やら、当時はかなり周囲の動きに振り回されていたんだなぁ、と思います。結局、私はそれらのものから導き出された職種や業種には就きませんし。

就職活動については、「人は人、自分は自分」というペースでは、考えられませんでした。人はどんどん就職先を決めていくのに、自分だけは決められない。したいことが定まらないし、どうしていいのか分からない。ただあるのは、「卒業して働かねば」という気持ちだけ。

世の中では、積極的に「○○したい!!」「××が目標!!」と明確に決められることが、よいことのように言われています。実際、私もそういうのは憧れであるし、そうやって決められたら、プレッシャーではあるけれど、余計なことは考えなくても済むので、その点では楽かなぁ、とも思います。

「△△しなければ」「□□すべきだから」なんて義務感だけじゃ楽しくないでしょ、とも言われます。でも、それは一概には言えない気がします。というのは、そういう気持ちは「●●したくない!!」という気持ちの裏返しだと思うからです。つまり、消極的な目標の持ち方…というのかな。でもって、その理由を突き詰めれば、「○○したい!!」というものが見えてくるのかと。

例えば、「働かねば」というのが「親に依存したくない」という理由だったとすれば、それは「自立したい」ということなのだと思います。そんな抽象的な漠然とした意志だけじゃ続かないよ、と言われるかもしれません。が、じゃあ明確な目標を持った若者は続くのかというと、思い描いていた仕事内容と実際とが違うということで、早期に離職してしまったりします。

というわけで、唐突にまとめるならば、どんな目標にしても成し遂げるには、辛抱強さや粘り強さが必要だということです。でもって、最短距離でまっしぐらに目標に向かうだけが人生ではないということです。名所を効率よく回るツアーだけが旅ではないのと同じように。

他人に自分の人生を定義されてたまるか。大切なのは自分の芯を揺らがせないこと。他人がそれを理解してくれるとは限らない。会う人会う人に否定されるかもしれない。でも、そんな大多数より、自分の感性や価値観を認めてくれた1人が、かけがえのない大切な人なのだと。

それが私から送ることのできるエールです。誰にって…自分に言い聞かせてるだけなのかもしれませんが(汗)。
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オチついてる、私?

自己承認欲求とは、多かれ少なかれ誰にでもあるものでしょうか。退廃的な生活を送っている私ですら、そのような欲求が少しはあるようです。

昔、他人のために奉仕しようと考える人は偉いと思っていました。私は何かをするのに自己満足でやっているような気しかしませんでしたので。でも、承認欲求という側面でみれば、偉い人も私も共通するものがあるかもしれません。そこだけでしょうが。

私はこれまでの人生で、「私は~という点で自分を誇れる」だとか「私は~という面では誰にも負けない」とかいうより、「自分はとにかく自分であって他人ではない」というスタンスで生きてきた気がします。

私は以前にも書いたかもしれませんが、小さい頃は本当に頼りなくて泣き虫で、困ると誰かに助けを求めて、自分の力で解決するなどということとは無縁の生活を送っていました。家族(特に親)が過去を振り返ると大体そのような話で、「お姉ちゃんはしっかりしていたのに、…」という言い方を、悪意からではなくとも、されたものです。

私がその後、「自分の人生設計は自分で描きたい」と強く思ってきたのは、この辺りに起因するのではないかと思われます。確固たる自分でいたい、自分の失敗(とも思えるもの)を誰かのせいにする弱さは要らない、と考えていました。まあ、その割には、たいして何も達成できてないようなのも事実ですが(汗)。とりあえず、誰かの敷いたレールの上を歩きたくありませんでした。

中学の頃、担任の先生が「君たちは何のために勉強するのですか?」と質問を投げかけてきました。その先生の用意した答えは「自分の未来の夢を叶えるため」。私はその答えに納得できませんでした。当時から刹那的に生きていたせいかもしれませんが、私は「勉強が楽しいから」自分は勉強しているんだと思っていました(当時)。

何で当時の勉強が楽しかったかと言えば、やはりやったらやっただけの成果が見込めて、その成果も客観的に評価され色々な人に褒めてもらえるというのが嬉しかったのでしょう。もっとも、中学受験前、小学4、5年ぐらいのときは勉強なんて嫌いでしたけどね。出来なかったものですから。

ちなみに、大学の勉強も成果は見えにくいので、そんなに好きじゃないように思います。たいした取り組みも出来ていないので、断言は出来ませんが…うぅ。

そういうわけで、確かに自分の将来の夢を叶えるためのステップとして受験勉強があるというのは否定はしませんが、勉強の目的という意味では「それだけじゃつまんないなー」と漠然と考えていたわけです。

それなりの(?)中学・高校生活を送り、大学進学という分岐点で、「そもそも大学に行く必要あるのかしら、自分」という疑問が起こりました。大学で何がしたいという目的があるでもなく行っても、学費の無駄だし、誰のためにもなってないし、高卒で働いた方が人の役に立てるのではないかと。でも、そこまでする勇気はなくて、結局大学に進学してしまいましたが。

大学を決めるときも、自分で「ここがいい!」というのはそんなにありませんでした。洋菓子が美味しそうだとか、農産物が美味しそうだという理由で大学を選びそうになっていたぐらいです。大学入学後、私が洋菓子が美味しそうだという理由で選んだ大学の志望理由が、母によって「やりたいことを研究している教授がいたから」と捏造されていたときにはビックリしました。

今の大学に入学してよかったことは勿論色々あります。環境的に整備されていることもそうですし、周りも頭のいい人・デキる人ばかりで退屈するということはありませんでした。肝心の頭脳は自分の努力不足で衰え以外の何も感じられませんが、視野は広げられたんじゃないかなぁ、と思います。

さて、そうやって漸く私も社会に出るときが来たのかな、というところなのですが。これでいいのだろうか、という思いがあります。

私が東京に出てこようと思った原動力は、確か今向いている方向とは別のところにあったのに、ただこのまま会社員になってしまっていいのかなぁ、と。やってみないと始まらないことは分かっているのに、一歩を踏み出す勇気がなくて、何もしないで終わってしまうのは、自分としては悔いが残ってしまうのではないかな、と当たり前のことを考えるのです。

私が会社員ならどういうことがしたいのかを明確に出来ないのも、実は自分の願望を捨てきれずにいて、「それが叶えられずに会社員になるんだったら、どれだって同じだ~」と考えてしまうからのように思います。当たって砕けてしまえばいいのかもしれません。要は諦めをつける、ということです。

このように文章にすると、口頭よりはまともな考えを述べられるのですが、でもやっぱり臆病で行動に移せない自分がいます。面倒くさがらず、根拠のない自信を持ってみるのも、私には必要なことかと思います。謙虚をとっくの昔に通り越して自虐的な私には。

と、今日の5限の講義と、その後の友人との夕食での会話を踏まえて書いてみたのでした。ツッコミどころ満載かもしれませんが、その場合、コメントを頂けると嬉しいです。あ、でも、あんまりキツく書くのはいけません。

自己承認欲求があるからです。
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