のんびり気まぐれ猫ブログ

教養を身につけたい、そんな年頃。

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私見~自分一人の意見~

NHKのニュースを見ていると、国の財政の話で「試算」と言うときに「試算、試みの計算」と言い換えていました。夫がそれが気になると言うのでニュースをじっくり聞いていたら、私も何だか気になってしまいました。Mr Childrenとかサザンオールスターズの歌のタイトルにありそうな感じもします。『試算~試みの計算~』みたいな。それにしても、試算と意味を取り違えるような“しさん”という単語はあるのでしょうか。

最近、地震が多いですね。有感地震だけを取り上げても去年から数は多いのですが、1年は「余震に注意」と言われていたのであまり気にしていませんでした。でも今年になって、とても余震とは思えない場所やレベルで地震が頻発しているので…今更「何もなければいいのですが…」と書いても他人事のようなので、そういうことは書きませんが何でしょう。何かあっても自分の身は自分で守りましょう!ということぐらいですかね。私が書けるのは。

17日には阪神大震災の追悼行事があったばかりですね。私はこういった行事自体に特に異議はないのですが、最近ではどうしても違和感を覚えてしまうことがあります。例えば東日本大震災はPM2:46、阪神大震災はAM5:46に起こったわけですが、この時刻に黙祷する意味ってあるんでしょうか。起こった時刻に亡くなった人なんてそんなにいないのに。私には亡くなった人ではなく地震そのものを追悼している気がしてなりません。象徴的な時刻と言えばそうかもしれませんが、そうなると、“追悼”と言いながら何がしかのドラマを演出したい、生きた人間の自己満足あるいは自己陶酔のように思えてしまって。大体、故人を偲ぶことだけならいつでもできますしね。特に、震災の遺族でもないのに、Twitterなどで「2時46分です。黙祷」とか書いてしまう脳タリンで無神経な人は何なんでしょうか。こういう方は事故や自殺で亡くなった無名の人に対しても黙祷してくれるんでしょうか。人生が黙祷で終わってしまいますね。

今年になって中島義道の本を色々読みました。哲学者の文章なんて絶対に自分には理解不能だと思っていたものですが、私が疑問に思っていたことについてakiさんが「誰かが本でこういう風に書いていた」と解説してくれるうちに、哲学というものに少しずつ興味を持ち始めた次第です。それにしても、中島義道の文章はなかなかに共感するところが多かったです。著書『愛という試練』では、彼の育った家庭がどのようなものであったかについても言及されていますが、それを読んでいると私が彼の考え方に共感するのも宜なるかなと。確信があるわけではありませんが…。

27年間生きてきて、「何を考えているのかよくわからない」「何を言っているのか意味不明」と言われたことは少なくありませんが、この頃はそれでいいと思うようになりました。少なくとも私は、自分の理解の範疇を超えているものに対してそうやって思考放棄しないようにしたいものです。
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エトセトラ | コメント:2 | トラックバック:0 |
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コメント

僕もakiさんに昔勧められてその本を買って読んだので、懐かしいです。僕も、いわゆる「わからないもの」に対して、思考を放棄しないような強さを持っていたいなと思うんですが、歳とともに少しずつ難しくなっていくのを感じます(気のせい?)。ご高齢になっても力強く考え続けることのできている人を見ると、本当にすごいと思います。

(ここからは非当事者なので空々しい文章になるかもしれません)
生き残った人々の一部には、「自己陶酔」というか、故人に関する過去の記憶や災害体験について、思い起こしたり解釈し直す作業が、前を向いて生きるために必要なんだと思います。その作業こそが、「追悼」の本質なのかなと僕は思います。
あんな感じでちょうどの日付、ピッタシの時刻に、ストーリーを大勢で分かち合うのには、一種の自己陶酔(ナルシシズム)はあるかもしれませんが、それが一部の当事者の感情の浄化(カタルシス)に役立っているならば、それでいいと僕は思います。
ただあの行事が当事者の方々の眼に総じてどう映っているのか、僕にはちょっとリアルな想像ができません。

少なくともtwitterのくだりのように、非当事者が「自己陶酔」するのは無神経ですね。


長文失礼しました。
2012-01-30 Mon 00:16 | URL | ふく [ 編集 ]
昔ほど掘り下げて考えられなくなったというのは、
ある程度年とると、今対処しなければならないこととか
実生活において考えなければならないこととか増えるからかな。
中島氏のような人は考えるのが仕事(趣味もあるかな)だからね。
あそこまでになると、毎日生きるのが辛そうだけど…(^_^;)

今回の文章は量の割には削ったり表現を変えたりで時間を食っています。
ふくちゃんが2段落目で書いていることも書きかけて止めました。
そうすると支離滅裂な感じになってしまったので…
私ってば自分が思うほど文章構成力がないんだなーと思いました。
そしてふくちゃんの書いていることは空々しくないですよ。

私自身も誰も亡くしていないので、遺族の人たちに
「私たちの気持ちがわかってたまるか」
と怒られたら、反論はできません。
ただ、ああいう風に人が一体化する行事って
裏を返すとそれに協調しない人を排除するためのものに
見えなくもないんですよね。
でも、そういうことなく、ただただ当然のこと、いいこととして
行われている(ように見える)ことがちょっと怖いなって思った…
のかなぁ。
実はみんなも色々考えてて、
私には思いつかないような発想がそこにはあるのかもですが…

社会のルールだとか道徳だとかちょっといい話とか語っちゃって、
誰かに褒められたいのか羨ましがられたいのか同意してもらいたいのか、
ホントに世の中ナルシシズムだらけですよ。程度の差はあれ。
それなのにナルシストっていうと嘲笑の対象にすらなりえるというのが、
本質は同じなのに何だかなと。

言葉の定義って難しいね。
コメントありがとう!
2012-01-30 Mon 12:07 | URL | miki [ 編集 ]

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